理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第2章「運命と自由意志について」第5節    天川貴之

 第5節  真なる自由意志とは

  

 このように、理性的存在者には自由意志が与えられているとすると、人間の真なる自由とはどういうことなのであろうか。

 人間は、如何なる時に自由を感ずることができるのであろうか。人間が真に自由を感ずる時というのは、ただ単に自由意志を行使する事自体にあるのではない。また、自由意志を乱用して、不調和な悪を創造することにもない。

 あくまでも、人間の自由意志は、自己の真なる本性に従って行使されて初めて、真の幸福を感ずるのである。

 それならば、他の生物と同じではないかという意見もあろうが、人間は、他の生物が他律的に、いわば盲目的に自己の本性に従っているのと異なり、あくまでも自発的に、自律的に、自覚的に本性に従っているところに尊厳があるのである。

 この自己の本性とは、内なる理性である。永遠不滅の生命の泉である。これは、良心の声ともいわれるものである。

 この理性に従うことによって、人間は最高の徳をなすことができるのであり、それに付随して、最高の幸福を得ることができるのである。

 また、この理性は、普遍的ではあるが、独自の個性を持つものなので、内なる理念であるということもできる。

 この理念の源は超越的実在にあり、それによって割り当てられたところの宇宙唯一の個性的天命こそが、理念なのである。

 そして、人間は、自己の個性的天命である理念に自発的に従い、これを発露させ、顕現してゆくところに最高の生きがいを感ずるのである。

 人間は、この個人の内なる理念、個性的天分に従って相応の人生を築くのであり、ここに人間の運命の原点があるともいえるのである。

 

(つづく)

 

第2章「運命と自由意志について」第4節    天川貴之

 第4節  相対的運命論について

 

 そこで、第二の自由意志肯定論、すなわち、相対的運命論について検討してゆきたいと思う。

 自由意志否定論では、現象界の万物の必然性から、人間の精神の必然性を導いてきたが、人間の精神の存在する世界とは、現象界ではないのである。

 人間の精神の中核は、理性であるが、理性的存在としての人間は、理念界、叡智界といわれる世界にあり、理性の自由という性質の中にあるといえるのである。

 現象界の因果律と理念界の自由という、この両方に足場をもつという人間観は、カントのみならず、人間が感性界とイデア界に存在するといわれたプラトンも同趣旨であり、古今を通した一つの大真理であろうと思う。

 では、先程、理念界においては、理性の本質は自由であると述べたが、何故、理性が自由であるということができるのであろうか。それは、理性こそが超越的実在の本質そのものであるからである。

 すなわち、超越的実在は、第一の原因となる自由意志を有し、そこから新たな創造が始まるといえるが、理性もまた同じく、第一原因となる自由意志を有し、そこから新たな創造を始めることができるのである。

 そうすると、人間の最高の尊厳の根拠は、超越的実在の分身であり、同じ理性という本質を有していること、そして、自由意志と自由創造力を有していることにあるといえるのである。

 

(つづく)

 

第2章「運命と自由意志について」第3節(2)  天川貴之

 第3節 自由意志の存在根拠について(2)

  

 故に、超越的実在の意志の下に、本来悪は存在しないのである。本来善のみが世界の本質なのである。しかし、人間の自由意志の迷いの結果、悪が生じているのである。

 また、人間に自由意志があるからこそ、悪の結果として、罪や責任を感じたり、反省を行うことが可能なのである。また、良心の呵責というものも存在するのである。

 また、人間が自由意志によって、善をなすことも悪を犯すこともあるということを前提にして、人間の道徳や倫理が成り立つのである。

 また、「自由意志」の存在を知っているのは人間だけである。かかる自覚があること自体、自由意志を与えられている証ではないだろうか。

 さらには、幸福という点から考えてみても、自発性の自由、選択の自由、創造の自由などがあってこそ、人間に真なる幸福があるのではないだろうか。

 すべてが運命によって決まっていて、それをなすだけならば、そこに、人間的な喜びの大半はなくなってゆくのではないだろうか。

 すなわち、自由意志があること自体、人間の幸福の基なのである。人間の幸福という観点からも、自由意志の存在は、大きく肯定されなければならないのではないかと思う。

 超越的存在もまた、人間に最高の幸福を与えるために、自由意志を与えられたのではないだろうか。

 それによって、確かに時々は悪を犯すことがあるであろうが、人間の内なる理性に基づき、大局においては、軌道修正されてゆくことを期待されているのではないだろうか。

 このように考えてゆくと、絶対的運命論は、真理として不充分であり、相対的運命論こそが、尊厳ある人間にとって大切ではないかと思えてくる。

 

(つづく)