理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第2章「運命と自由意志について」【注解的続編】(5)

 【注解的続編】(5)

  

⑰  本論文では、超越的実在と人間が共に運命を創ってゆくことが述べられているが、それは、理性と自由意志を有している点で同質存在であると述べているだけである。一方では、超越的存在と人間とでは、理性の顕現度合いの差や、自由意志の裁量の度合いの差には、大きな開きがあることも銘記しておかなくてはならない。

 

⑱  相対的運命論の立場に立った場合でも、人間に与えた本性と自由意志の結果どうなるかをすべてを計算した、その答えである人類の歴史を知りつくしている全智全能の叡智者としての超越的実在の姿を考えることもできる。その場合、人類の姿は、自由意志を与えられているにもかかわらず、必然的な運命のストーリーを演じているように考えられるであろう。

 

⑲  動植物には、ほとんど自由意志が与えられていないので、悪を生ずることもなければ、積極的に創造的善をなすこともできないのである。積極的に創造的善をなすことができるのは、人間の特権である。

 

⑳  人間が内なる理念に従って生きている時は自由であるが、その理念が必然性を有しているが故に、必然的な方向において、言動、もしくは創造しているといえる。例えば、モーツァルトが内なる理念に従って作曲した時、彼は自由であるが、その理念が必然性をもっているが故に、いわば運命に定められた必然の作曲をなしたことになるのである。

 

21  内なる理念とは、大宇宙を統べている理念の一部である。故に、理念に自発的に従えば従う程に、理念を輝かせれば輝かせる程に、必然的なるよきものを実現してゆく超越的実在の計画を実現することに役立つのである。

 

22  人間は、己が本性、己が理念に向けて自由意志を行使することによって、真に「自由」となる。しかし、同時に、理性の必然の下に生きることになる。かくして、自由と必然とは、不即不離の関係にあるのである。

 

23  では、本論文で述べられている運命の開拓という発想と理性の必然に従うという発想とはどのように両立するのであろうか。考えてみるに、運命にはなお変更の余地があるであろう。それは、理念には無限の輝きがあるからである。必然という理性も一通りではなく、幾つもの運命のシナリオを秘めているものだからである。故に、運命は、自由意志によって開拓してゆくことができるということが真理なのである。

 

 (おわり)

 

第2章「運命と自由意志について」【注解的続編】(4)

 

⑬  本論文では、理性的存在者は自由意志を有していると論じられているが、理性と自由意志との関係については、まだまだ探究の余地があるといえよう。

 特に、理性を源とする自由意志が、なぜ自己本性である理性に従わずに、理性と対極にある所の煩悩に惑わされることがあるのかという点については、深い洞察が必要である。

 ここでは、自由意志が自由である限り、本来の源である理性に合致した選択もできれば、本来の源に反する煩悩に合致した選択もできるということにとどめておきたい。


  
⑭  ここで、ヘーゲルの合理哲学やカントの合理哲学と、ショーペンハウアーの盲目的意志の哲学は止揚できるのではないかという点について述べておきたい。

 ショーペンハウアーが盲目的意志を論じられているのは、主として人間の内なる煩悩であると考えれば、ショーペンハウアーが「意志の否定」と名付けたのは、実は煩悩の滅却であって、その上で、カントやヘーゲルの述べる真なる理性が出現してくるのである。

 すなわち、煩悩を有していることも人間の真実であり、同時に、その奥に理性を有していることも人間の真実なのである。この両方を観じないと、真なる人間性は把握できないと思われる。

 

⑮  自由意志肯定論の中で、「内なる理念」というのは、各自の内に個性的に割りあてられた理性のことである。

 この「内なる理念」には、無限の個性の差と無限の顕現レベルの差があり、多様なものである。しかし、この多様なる理念は、一なる理念、唯一なる超越的実在から派生したものであるのである。

 

⑯  カントの論じられた内なる理性とは、万人に共通な点が強調されているが、私の論じている内なる理性とは、各自が固有の理念として、万人に共通な基盤を持ちながらも、それぞれ唯一無二である点が強調されているのである。

 

(つづく)

 

第2章「運命と自由意志について」【注解的続編】(3)

 【注解的続編】(3)

 

⑧  相対的運命論、すなわち自由意志肯定論の立場は、道徳的な哲学思想から導かれることが多い。何故なら、道徳的善を行うためには、自由意志による自律が大切であるからである。

 代表的な哲学として、ストア哲学とカント哲学を挙げておきたい。両者の背景に流れる哲学は、自由意志の存在を前提として、感情を理性によって統御する美徳を説く点において、極めて類似していると思われるし、それこそが、普遍的な道徳原理ではないかと考えられるのである。

 

⑨  ストア哲学においては、自由意志を合理的に用いることが、自然に則ることであり、自然に則って生きることが、運命の摂理であると考える。また、自由意志を非合理に用いることが不自然なことであり、また、運命の摂理に反していると考える。

 故に、大宇宙の叡智より一片の理性を割りあてられた人間として、理性に合致した、自然に則した行動をしようとするのである。特に、マルクス=アウレリウスの『自省録』には、かかる思想が、実践道徳哲学として、実に滋味深く綴られている。


⑩  カントの道徳哲学の主著は、『実践理性批判』であろう。彼の道徳哲学に大きな影響を与えたものが、ルソーの『エミール』であることはよく知られている。ルソーはその中で、「良心の声」に忠実であることを主張され、「良心の声」に忠実に生きることこそ、善の行為であるとされている。

 このルソーの良心の声とは、マルクス=アウレリウスの指導理性の声と、ほぼ内容は同じである。そして、ルソーの思想の骨子だといわれている「自然にかえれ」という思想は、その本質において、ストア哲学の自然に則して生きることと、ほぼ同じであると私は考える。

 

⑪  このルソーの良心の哲学を、より理性的に純化し、体系化したものが、カントの道徳哲学である。

 

⑫  カントは、道徳を全うするためには、自由(意志)の概念が不可欠であると考えた。そこで、『純粋理性批判』の中で、認識できない先験的理念として自由(意志)を論じていたのを、『実践理性批判』では、実践理性の要請として、自由(意志)が導かれるとされたのである。

 具体的には、人間の内には普遍の道徳律があるということを、「理性の事実」として、実践において確認できるとした上で、この道徳律自身が、既に自由(意志)の存在を予想し、承認していることになると論じたのである。

 

(つづく)