理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(7)

 〔注解的続編〕(7)

 

 快楽としては、他に、酒やタバコや大声で騒ぎたてることが一緒になっている遊びに多くの人々があけくれている。

 しかし、それも節度を超すと、人生を誤りやすい。何故なら、酒もタバコも、理性の目覚めを妨げ、あえて理性にふたをする行為であるからである。

 故に、酒に酔えば酔う程に、タバコの煙を吸えば吸う程に、理性の世界から心が遠ざかってゆくのである。

 大声で騒ぎたてることも、声なき理性の声を隠してしまうのである。

 このような快楽に人生の時間を多く使いすぎると、魂にとっては堕落となってゆく。そして、いつか、最も大切な理性さえも見失ってしまう。

 理性は、静かで平安で落ち着きのある中に目覚めてゆくものなのである。

 故に、できるだけ静寂な時間を理性のためにとってゆくことこそ、真なるストイシズムであろう。

 

(つづく)

 

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(6)

 〔注解的続編〕(6)

 

 金銭欲については、現代社会においては、貨幣経済となっているが故に、地上的なる欲望の対象が金銭そのものになることが多い。

 しかし、金銭そのものに価値があるかといえば、そうではない。金銭を通して何をせんとしているのかが大切なのである。

 故に、金銭を、例えば自己の教養を磨くために使うのであれば、理性を輝かせることになるので、価値の高い生き方であるといえるし、逆に、足ることを知らぬ衣食住の欲や性欲などのために使われたとするならば、それは、欲望を助長させただけであるから、あまり価値の高い生き方であるとはいえないであろう。

 このように考えてみると、欲望を助長させるような金銭欲に生きるよりは、清貧に生きた方がよいといえるし、理性を顕現させるような生き方のためになら、清豊もよいといえるのである。

 清貧に生きる道も、清豊に生きる道も、どちらも素晴らしい点がある。

 故に、金銭があれば、清豊の生き方をし、なければ、清貧の生き方に足ることを知り、結局のところ、理性を輝かせる一条の大道を歩めばよいのである。

 

 (つづく)

 

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(5)

 〔注解的続編〕(5)

 

 地位欲についてであるが、地上における地位は、必ずしも、心の高下や理性の顕現度合いに応じているとは限らない。

 故に、たとえ首相の地位にある方であっても、その心が低く、理性を充分に顕現しておられなかったとすれば、心を常によく磨き、理性の眼をもった一家庭の御婦人よりも低い地位にあるといえるのである。

 故に、まず何よりも、理性の地位をこそ高めてゆくことに心を集中させてゆくべきである。

 そして、地位とは、自分の器に応じて自然に与えられるものだと思って、自らの器を磨くことに専念してゆくべきである。

 そして、ある一定の地位を得たならば、その地位にふさわしい徳をもって、人々に愛と智慧を与えてさしあげることが大切である。

 そして、もし、しかるべき地位が与えられなくとも、決して心に苦しみをつくることなく、淡々として自己の器を磨き、理性を顕現させてゆくことが真のストイシズムであるといえる。

 皇帝の立場にあったマルクス=アウレリウスも、奴隷の立場にあったエピクテトスも、同じくストアの哲人として、叡智の結晶を後世に遺す立派な人生を幸福に送られたのである。

 どのような地位にあろうとも、哲人として生きることは可能なのである。

 

 (つづく)