第1章「無常と永遠について」 第1節
第1節 万物と無常について
無常と永遠について論じてゆきたい。副題は、人間の使命ということである。
無常について考えてみるに、これほど人生にとって本質的な真理はないであろうと思われるものである。しかし、多くの方々は、無常なるものを無常なるものと観ずることなく、日々を過ごされているわけである。
しかし、真理というものは誰にも曲げることはできない。永遠であってほしいと思うものも、すべて移り変わり、流転してゆくわけである。
「万物は流転する」とは、ヘラクレイトスの言葉である。古代ギリシャにあるだけではなく、古代インドにおいても、釈尊が、諸行無常の真理を説かれている。人生において出会うものすべてをよくよく観察してみると、何一つ無常という自然法則を逃れてはいないのである。
一方、素朴な人間の認識は、万物を常なる存在であると思ってしまうのである。例えば、自分が住んでいる家であっても、あたかも永遠に住むべき場所のように考えてしまうのであるけれども、ある時、引越しを経験することによって、また、地震などで家が崩壊するという事件を経験することによって、家というものはやはり無常なのであるということを、現実問題として認識することができるのである。
万物が常にあるという認識は誤りであって、本当の現実とは、万物が流転するという認識であったわけである。この地上にあるものは、すべて無常である。常なるものは、一つも存在しないのである。
では何故、すべてのものが無常なのであろうか。それは、すべてのものに時間の流れというものが内在されているからである。時間こそが存在であり、存在は時間である。地上の何物も、時間の流れに抗することはできない。すべては、時間の流れという大河の中に流れてゆくものなのである。
そして、この時間の流れは、あらゆる空間のつながりを壊す作用があるので、この地上のすべてのものは、時間の流れとともにその形を変え、ついには無へと帰するものである。
無に帰するものは、すべて無から始まったものである。空間のつながりの根源の姿は、無であり、無から始まってすべての要素が集まり、一つの空間ができているのである。この地上の無常の大河の上流にあるものは、無であり、その下流にあるものも無である。
これは、数学的に言えば、ゼロということである。インドの哲学の最大の功績の一つは、このゼロの感覚というものを発見したことにあると言われているのである。ゼロなるものからすべてのものが生まれ、ゼロなるものへと帰してゆく。
この無を自覚した時に、あらゆるものに対する執着がなくなり、自由自在にして、平和、平安なる境地が生まれるのである。
すなわち、「物質は本来無いのである」ということである。これが、物の本質を喝破した悟りの境地である。