理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第1章「無常と永遠について」 第2節

第2節   人間と無常について

 

 それでは、地上に生きる人間自身はどうであろうか。肉体は、物質と同じく無常である。誕生して後、成長し、そして徐々に老い、そして死する存在である。肉体もまた、無常の大河の中で、無から生まれて、無に帰する存在である。すなわち、空間のつながりによって、仮に生まれているものにすぎない。故に、「肉体は本来無いのである」という真理が導かれるのである。


   では、心はどうであろうか。一見、心は変わらないように見える。しかし、人生を長い目で見てみると、心も変転していると言えよう。様々な心情があるが、その中に果たして実体があるであろうか。実在があるであろうか。一つ一つの思いを点検してみた時に、すべては去来し、そしてまた、移り変わり、なくなってゆくものであろう。それは実体とは言えず、実在とは言えないのである。


   例えば、恋愛をとってみても、恋愛の心情が、ある時は高揚し、ある時は冷めて消えてしまうように、無常であることがわかるのである。ある人を愛する前は、その恋愛感情はもともとなかったものであるから、本来、無から生じた恋愛感情は、やはり無に帰してゆくのが本質なのである。


 また、精神的な徳目についても、例えば、愛や情熱などの感情は、常に磨かれ、維持しておかないと、徐々にではあってもなくなってゆくことがわかるのである。一生を通じて愛や情熱などを維持される方もあるけれども、これは、あくまでも努力の産物なのである。努力精進しなければ衰えてゆくものであるのである。


 このように、心と、そこから生まれる感情もまた無常であり、やはり無から生まれて、無に帰するものであると言わざるを得ないのである。故に、「心は、本来無いのである」という真理が成り立つことがわかる。


   そうすると、心にも時間の流れがあり、心にも空間的つながりがあるのではないかと探求してみると、確かに、心の中に起こる感情は生成流転しているものであるから、時間の流れがあるといえよう。

 しかし、物質の時間の流れと異なるところは、物質が、過去、現在、未来という位置が確固としているのに対して、心の世界では、過去のことが現在のように感じられたり、未来のことが現在のように感じられたりして、いわば、現在の中に、未来と過去とが共存するということが可能であるという点において、物質とは異なった時間の流れ方があるように思われるのである。


 また、空間的にも、その形状を、縦、横、高さで表すことができにくいことが挙げられる。特別な意識的空間が存在するのであろうと思う。このように、物質とは形式を異にするが、心が無常であることに変わることはない。

 

(つづく)