第1章「無常と永遠について」 第5節
第5節 永遠なる実在について
このように、人間の内奥を深く深く掘り下げてゆくと、永遠なる真理、永遠なる善の法則、永遠なる美、永遠なる聖なる神性が実在することがわかるのである。
すなわち、人間とは、肉体と心において無常であるが、その本源に永遠なる実在を秘めている存在であることがわかるのである。
この永遠なる実在の発現レベルには差があり、それが、哲人と凡人、賢人と凡人、芸術家と凡人、聖人と凡人を分ける基準となっているのである。かかる観点から、私は、人間の本質は、永遠なる実在を内在する点にあると述べておきたい。
すなわち、人間の人間たる意義は、永遠なる実在を顕現する点にあるのである。無常なる存在に甘んじて生きることは、人間としての使命を果たしていないことと同じなのである。
人間の人間たる所以は、永遠なる実在を顕現してゆくことにあるのである。その意味において、人間は、本来、永遠であると断言しておきたい。
すなわち、人間は、永遠なるものから生まれ、永遠なるものを発現し、永遠なるものへと帰する実在そのものであり、永遠不滅の生命そのものなのである。
肉体は、無常なるものから生まれ、無なるものから生まれ、無へと帰してゆくものであるかもしれないが、人間の内なる永遠性は、永遠なるものから生まれ、永遠なるものへと還ってゆくものであり、もっと厳密に言えば、常に永遠として永遠そのものとして生き通しの生命であると言えるのである。
かのイエス・キリストの言われた、「我は、アブラハムの以前よりあるなり」という言葉は、永遠なるキリストの本質を述べてあるのである。また、仏教でいう所の「久遠実成の仏」とは、こうした人間の内なる永遠性について言及されていることなのである。
すべての人間の内には、永遠なる生命が眠っているのである。そして、目覚めんとして、躍動しているのである。より真なるもの、より善なるもの、より美なるもの、より聖なるものに向かって、永遠なる生命がそれと一体化せんとしているのである。
真なるものそのものとなることこそ、人間の最高の姿である。善なるものそのものとなることこそ、人間の最高の姿である。美なるものそのものとなることこそ、人間の最高の姿である。聖なるものそのものとなることが、人間の最高の姿なのである。
この真なるもの、善なるもの、美なるもの、聖なるものを称して理念という。理念と一体化してゆくことこそ、哲学の究極の目標であり、人間の究極の目標であるといえるのである。
(つづく)