第1章「無常と永遠について」【注解的続編】(4)
【注解的続編】(4)
⑨ 人間の内なる「永遠なるもの」が外に創造として顕現すると、同じく永遠なるものとなる。
プラトンが認識された真理は永遠なるものであるが故に、今日に到るまで永遠の生命を保ちつづけている。
それは、同時代にあった数多くの著作物と比べてみられたらよく分かる。そのほとんどが、真理そのものではなく、無常なる知識であったがために、時代と共に忘れ去られてしまっている。
無常なる知識は、いくら当時の世潮に合致し、永遠なるものかにみえたとしても、時代を超えてみれば、無常なるものであったことが分かるのである。
一方、その時代においては、あまりもてはやされなかった真理の書が、時代を超えて読みつがれていることは歴史の真実である。
例えば、イエス・キリストの御言葉に「天地は過ぎゆかん。されど、我が言葉は過ぎゆくことなし」というものがあるが、まさしくイエス・キリストの御言葉は、宗教的真理そのものであったが故に、永遠に今日に到るまで読みつがれているのである。
この真理の法則は、現代にもあてはまる。今の時代にはやっているどのようなベストセラーも、真理そのものがそこに描かれていないならば、無常のあだ花でしかないのである。
その意味で、真理そのものが描かれている本を選び読む習慣、特に、古典を読む習慣は大切なのである。
この人間の内なる「永遠なるもの」は、もちろん他に、美として、芸術として創造される。これも、真理と同じく、人間の内なる実在が投影されたものであるならば、その作品は永遠性をもつ。
その反面、人間の皮相なる無常なる部分が投影されたものであるならば、その作品もまた無常である。
例えば、音楽をとってみても、バッハやモーツアルトなどの古典は、真理が音楽で描かれている程に永遠なる調べがそこにある。こうしたものは、時代を超えて常に聴かれている。
しかし、人間の皮相的な部分からでている流行歌などは、一時的に人気が出たものも、時とともに、すぐにすたれてしまうものが多い。
このように、人間の内なる永遠性に起因するものは永遠の生命を持ち、人間の無常性に起因するものは無常なるものとなるのである。
(つづく)