理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第3章「快楽と幸福について」第3節          天川貴之

 第3節 理性の目覚めについて

 

 ここに、理性が目覚めかけた一人の青年がいるとしよう。彼は、社会通念に則って、友人達と様々な快楽を共にするとしよう。しかし、彼は、常に心の中に葛藤と疑問を抱くはずである。「本当にこんなことをしていていいのであろうか」と。

 そして、快楽の遊びに熱中しきれずに、どこか醒めた目で人々を見ているであろう。「自分は、この方々のようには心の底から楽しむことが出来ない。むしろ、どちらかと言えば苦痛である」と。

 この様に、理性が目覚めてくると、人間は、何が真の幸福で何が不幸であるのかがわかってくるのである。理性が目覚めてこなければ、理性は全くないのと同じであるから、理性が目覚めなくては、人間は感性的本能のままに生きることになってしまうのである。

 しかも、人間は自由意志を持っているから、過度の本能的欲求のままに生きてしまう事になるのである。

 理性の目覚めていない人々は、快楽の中にあっても、それが不幸だとは思わない。いや、思えないのである。そして、それこそが幸福であると錯覚してしまうのである。

 例えば、血の池地獄のような場所を思いうかべてみよう。そこには、色情の快楽に埋没して生きた方がおられる。そして、今もなお、色情の快楽の中に耽っているのである。当人達は、自分は快楽の中にあって幸福だと思っている。

 しかし、そこは地獄なのである。苦しみの世界なのである。もちろん、理性が目覚めた方は、その世界が地獄であると見える。しかも、また当人達の心の本性も、そこを地獄だと感じているはずなのである。これは一つのたとえであるけれども、この様な方が世の中には多いのである。

 自分自身の心の本質に気づかないということは最も愚かなことである。自分自身の心が本当には何を欲しているのかを知らないということは最も悲しむべきことである。

 

(つづく)