第4章「存在と実在について」第1節 天川貴之
第1節 本当に「有るもの」について
存在と実在について述べてゆきたい。
存在とは有るものである。しかし、プラトンの時代から、本当に「有るもの」といえるものは何かという問いが発されつづけているのである。
通常の我々の意識においては、地上世界における有るものこそが、本当に「有るもの」であると感じるわけであるが、プラトンは、地上における有るものとは、変転してゆくものであって、本当に「有るもの」とはいえない。
天上世界にあって変転することのないイデアこそが、本当に「有るもの」、すなわち、実在であるとされたわけである。
このプラトンのいわれる実在というものは、天上世界にあるものであるといわれているが、それは、必ずしも我々の心を離れてあるものではない。
心の内に天国があり、地獄があるといわれるように、イデアたる実在も、我々の心の内にあるともいえるわけである。
故に、我々は、心の眼によって、イデアたる実在を認識できるはずなのである。
しかし、プラトンなどの一握りの哲人達がイデアを真に認識できるのに対して、大多数の人々は、イデアを認識するに到らない。
こうした背景から、プラトンは、真にイデアを認識できる一握りの哲人達が統治者となって、国家を運営するべきであるとして、真にイデアを認識するに到らない大衆による民主政治に対して、疑問を投げかけられたのである。
では、何故、イデアを認識できる哲人と、イデアを認識するに到らない人々とに分かれるのであろうか。
プラトンは、肉体の束縛を離れ、精神の働きを活性化させることによってイデアを認識できるとされているが、その本質について分析し、論じてゆきたいと思う。
人間の心の世界においては、その精神性の発揮の仕方に応じて、階層性があるものである。故に、悟りの段階に応じた悟境・心境というものが存在するのである。
そこで、何段階かに心の世界を分けて、本当に「有るもの」とは一体何かということを論じてゆきたいと思う。すなわち、結論として、心の世界の段階に応じて、本当に「有るもの」が変わってゆくという立場に立っているのである。
それは、心を修めた方であるならば、万人が体験しうる世界であり、普遍的な世界観であるといえるものである。
(つづく)