第10章「時空と絶対無について」第8節(1) 天川貴之
第8節 絶対光明の芸術意識としての「無」(1)
本当の愛というものは、絶対秩序と絶対平等を止揚しているところの絶対愛である。
その絶対愛を体現しようと思ったならば、理法を見抜く叡智が必要であるから、絶対叡智即絶対愛であると言える。
そして、それが光明荘厳の世界を築くわけだから、絶対光明であると言える。絶対愛即絶対叡智即絶対光明である。
絶対光明と申したけれども、光明荘厳の世界に行き着くまでにおいては、迷いの世界があり、また悲劇があり、喜劇があり、一大光明劇をベースにしながら、様々な劇が、人生の無という宇宙の中で展開されているように見える。
悲劇がなければ、一切の悲しみも、苦しみも、悩みも、挫折も、失敗もないであろう。喜劇がなければ、笑いもないし、また失敗もないであろう。また、サービス精神もないであろう。光明劇のみであるならば、それもまた、一つの限定が入っている。
あらゆる悲劇、喜劇、光明劇を、その根底で司っているところの意識は、一大光明荘厳の芸術意識であり、すべては大調和に向かってゆくしかない。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
第10章「時空と絶対無について」第7節(3) 天川貴之
第7節 絶対秩序の意識としての「無」(3)
地球になぜ、元々無かったところの九次元世界がつくられたのか。
地球になぜ、元々無かったところの八次元、七次元、六次元世界が創られたのか。
そして、なぜ元々無かったところの五次元世界が創られたのか。
またなぜ、元々無かったところの四次元世界を創られたのか。
そして、元々三次元世界があったのか。
これを深く洞察してゆかなければ、健全な判断というものはできない。
限りなく「無」の立場に立ちながら、すべての存在価値を認めるところから、新時代の哲学は出発し、尚かつ同時に、すべてを秩序づけている理法意識を見抜くところから、新時代の哲学は始まっていくのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
第10章「時空と絶対無について」第7節(2) 天川貴之
第7節 絶対秩序の意識としての「無」(2)
時間の流れがあるのは、神の心の流れがあるからである。
すべてのすべてで、神は無であったわけであるから、時間はない。空間もない。
けれども、その中から念いが生まれた。そして、その言葉が、時間、空間をつくり、すべての現象を在らしめた。
そして、すべての現象に、進化と調和、即ち、大調和の方向性を、時間の流れとして本源意識は方向性として持たれた。
その方向性を実現するために、宇宙的秩序というものがあり、その宇宙的秩序を、地球という場所において、個性をもって分光し、その秩序を顕わしている意識が、喩えていうならば太陽の実在であり、月の実在であり、また地球の実在であり、地球に幸えているすべてのものは、存在として価値を有しておりながら、秩序として、真理か偽か、善か悪か、また美か醜か、聖か俗か、正統か異端か、健康か不健康か、繁栄か衰退か、そのように分かれているのである。
それは、宇宙秩序の意識が、宇宙平等の意識と共に働いているからである。秩序即平等であり、平等即秩序であり、そのコアは、宇宙の本源なる無の意識にあるのである。
その双方を忖度しなければ、本当の宇宙、さらにいえば、地球というものを理解することはできない。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)