第10章「時空と絶対無について」第8節(2) 天川貴之
第8節 絶対光明の芸術意識としての「無」(2)
しかし、同時に、自由意志を与えられた人間存在を中心とする三次元宇宙の劇は、様々な喜劇を生じ、様々な悲劇を生じ、様々な悲しみ、苦しみ、悩み、挫折、そのようなものも存在し、そのようなものを素材としながら、三次元にしか放つことの出来ない芸術というものを創造してゆくことができる。
闇がなければ、光はない。闇が解らなければ、光は解らないというのも真理である。光が光として光を認識するというのも真理である。そして、その両方を、様々な時間空間の中で必要としている存在があるということも事実である。
であるから、すべての存在に対して、あらゆる教材を劇として、カルマの法則の観点から提供しているのが、本源なる地球的無の意識である。
そのような立場に立つならば、私達は、あらゆる万象万物に対して、深い愛の眼差しを持ち、そして、すべてに感謝し、和解し、そして尊重し、そのような博愛の精神を持ちながら、同時に、理法を応用した所の秩序を実現してゆくという使命を担わなければならない。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
第10章「時空と絶対無について」第8節(1) 天川貴之
第8節 絶対光明の芸術意識としての「無」(1)
本当の愛というものは、絶対秩序と絶対平等を止揚しているところの絶対愛である。
その絶対愛を体現しようと思ったならば、理法を見抜く叡智が必要であるから、絶対叡智即絶対愛であると言える。
そして、それが光明荘厳の世界を築くわけだから、絶対光明であると言える。絶対愛即絶対叡智即絶対光明である。
絶対光明と申したけれども、光明荘厳の世界に行き着くまでにおいては、迷いの世界があり、また悲劇があり、喜劇があり、一大光明劇をベースにしながら、様々な劇が、人生の無という宇宙の中で展開されているように見える。
悲劇がなければ、一切の悲しみも、苦しみも、悩みも、挫折も、失敗もないであろう。喜劇がなければ、笑いもないし、また失敗もないであろう。また、サービス精神もないであろう。光明劇のみであるならば、それもまた、一つの限定が入っている。
あらゆる悲劇、喜劇、光明劇を、その根底で司っているところの意識は、一大光明荘厳の芸術意識であり、すべては大調和に向かってゆくしかない。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
第10章「時空と絶対無について」第7節(3) 天川貴之
第7節 絶対秩序の意識としての「無」(3)
地球になぜ、元々無かったところの九次元世界がつくられたのか。
地球になぜ、元々無かったところの八次元、七次元、六次元世界が創られたのか。
そして、なぜ元々無かったところの五次元世界が創られたのか。
またなぜ、元々無かったところの四次元世界を創られたのか。
そして、元々三次元世界があったのか。
これを深く洞察してゆかなければ、健全な判断というものはできない。
限りなく「無」の立場に立ちながら、すべての存在価値を認めるところから、新時代の哲学は出発し、尚かつ同時に、すべてを秩序づけている理法意識を見抜くところから、新時代の哲学は始まっていくのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)