第4章「存在と実在について」〔注解的続編〕(5)
〔注解的続編〕(5)
⑲ 本論文の認識論とカントの認識論についても述べておきたいと思う。本注解において「見性」と述べたものは、仏性を見ることであるが、これを哲学的に置き換えてみると、理性を見ることにあたる。
すなわち、本論文の認識論とカントの認識論を比較する場合、理性的認識のレベルで比較しなければならないということである。
⑳ カントの認識論においては、時間空間の直観的認識と様々なカテゴリーに基づく悟性的認識を前提とするが、その奥にある理性的認識に到っては、超経験的という観点から、自戒的である。
(21)カントの立場に立てば、本来、イデアたる真実在も仏性も認識できない。いわば、「物自体」の世界にあたることになるかもしれない。
しかし、本論文で述べているイデアが、心の世界の内にあるとするならばどうであろうか。
私は、心の世界は経験可能な領域であり、そこには、理性が認識すべき法則と真理があると思う。故に、心理学などの学問が成り立っているのではないだろうか。
私は、イデアを心の世界のことに限定することによって、カント的認識論にも新しい道が開けると思う。
(22) ヘーゲル哲学においては、認識される現実の内に理念を見出していった。その
現実は、心の現実も含まれると解する。
(23)人間の精神の内奥に理念があるということは、本論文においては、人間の心の内
奥に理念があるということと同じである。
この点において、イデアと理念は、その本質において、同じ形而上学上の価値を持っていると解する。
(24) 真理は一つであり、法則も一つである。かかるものを、哲学、ひいては学問は探究している。
この真理、法則にあたるものこそが、プラトンにおいてはイデアであり、ヘーゲルにおいては理念なのである。
そして、それらは、等しく人間の本質なのであり、世界の本質なのであり、永遠不滅なる真実在なのである。
(おわり)