第6章「厭世観と楽天観について」第3節
第3節 両哲学を止揚した楽天哲学について
そこで、この両者の厭世哲学と楽天哲学を比較検討してゆくに、まず、根本的な実在観についてであるが、大宇宙の摂理、大自然の摂理、そして、人間の摂理をよくよく洞察してみた時に、そこに、限りなく合理的な叡知的実在を認めざるをえないであろう。
故に、ショーペンハウアーのいう盲目的意志は、究極の実在とはいえないと思う。
では、ライプニッツのような絶対者の存在を前提として考えてみると、地上は調和し、幸福に満ち満ちているはずであるが、地上の現実は、数多くの不幸や苦悩の存在で満ち満ちているので、これをどのように位置づけてゆけばよいか、問題となる。
そこで、両者を止揚してみると、叡知的絶対者を前提とした上で、人間の本質とは、心の内奥に確かに絶対者と同じ理性が宿っていることが認められるが、同時に、煩悩と自由意志を有した存在であることが洞察されるのである。
すなわち、地上に現れている不幸や苦悩は、絶対者が創られたものではなく、人間の煩悩の迷いに基づいた自由意志の行使の結果、現れているものであると考えるのである。
この見解は、人間の煩悩を理性の発露によって統御でき、人間が理性を顕現すれば、地上は調和し、幸福で満ちてくるという人生観、世界観に立つことになるので、楽天観的哲学の方に入ると思われる。
(つづく)