理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第6章「厭世観と楽天観について」〔注解的続編〕(5)

 〔注解的続編〕(5)

 

⑮  ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、煩悩の自我の否定のことである。

 本論文では、単純否定の厭世観の境地から、絶対肯定の楽天観の境地まで、弁証法的観点から一躍に進展するように述べているが、実は、その前にどうしても透過しておかなければならない関門がある。それが、煩悩の自我の否定なのである。

 そのためには、煩悩の自我の一つ一つを反省によって浄化してゆくことが必要である。この段階が完了すると、無我の境地になり、ショーペンハウアー流にいうと、意志の混入することのない純粋で明鏡の如き認識をすることができるのである。

 この明鏡に映る世界は、もはや苦悩の世界ではなく、光輝いた素晴らしい世界なのである。

 以上述べたことが、ショーペンハウアーが遂にその哲学体系の中で述べることのなかった「意志の否定」の方法である。

 

 

⑯  ショーペンハウアーの流れを受けたハルトマンも、独自の厭世哲学で有名である。彼は、地上のありとしあらゆる幸福とみえしものが、実は幻であることを論じる。すなわち、人生と世界の本質は苦悩であることを論じる。

 そして実は、それは神の苦悩が現れているというのである。神は苦悩の状態にあり、その苦悩を解消するために、人間と世界を創られた。

 故に、人間は、人生の苦悩を背負いながら、崇高なる倫理的義務を果たしてゆく所に使命があるとされている。

 しかし、絶対者が苦悩しているというのは、人間的尺度から絶対者を観た目の錯覚であるといえよう。

 あくまでも究極の絶対者は、真善美聖などあらゆるよきものの究極の実在である。そして、人間の自由意志による迷いの世界を憐みて、慈悲の心をもって眺めておられる存在であると考える。

 ハルトマンの苦の現象界の設定は、ある面での真理を洞察しているといえるが、やはり、ショーペンハウアーと同じく、苦の源となる形而上学的原理として、苦悩する神を据えている所に誤りがあるといえる。

 また、理念の真理に関して洞察が到ってないことはいうまでもない。

 

 (つづく)