第7章「知識と叡智について」(12)天川貴之
【注解的続編】(2)
④ ヘーゲルの絶対知とは、理念(絶対者)と自己とが一体であるという認識であり、真の意味で、理念(絶対者)そのものを知ることである。かかる知は、叡智の段階であるといえる。
彼は、歴史上の全哲学を自己の哲学的体系の中に位置づけ、自己の哲学の内に包含しようとしたが、かかる認識は、叡智のあらわれであるといえる。
ヘーゲルは、「歴史哲学」などの中で、はっきりと時代精神、世界精神について認識しているが、これも叡智のあらわれであるといえよう。
⑤ プラトンは、イデアを理性によって思索し、認識することを真知(エピステーメ)と呼び、尊んだが、このイデアを認識する知とは、叡智であるといえよう。
⑥ プロティノスは、「一者」を神秘的直観によって直接認識することを尊んだが、この「一者」を認識する知とは、叡智であるといえよう。
⑦ エマソンは、深い思索の中で、自己の精神内に神を認識し、自然の内にも、歴史の内にも神を認識され、その実感をエッセイに綴った。そして、自らを、新しい時代精神として自覚していた。エマソンの神の認識も、叡智の段階であるといえよう。
⑧ 西田幾多郎の絶対無の哲学は、全世界的にみても、独自のオリジナリティーを有したものである。
絶対無とは、究極の神そのものであるから、彼の認識の高さも、叡智の段階にあったといえよう。
彼は、日々欠かさない座禅の修行の内に思索を重ね、哲学を構築したが、かかる姿勢の中に、本論中で示した叡智へと到る方法論がうかがえるのである。
(おわり)