第10章「時空と絶対無について」第3節 天川貴之
第3節 宗教の立場から「無」を探究する
更に、宗教で言われる所の「無」もまた同じであり、時間論、空間論もまた、宗教の本質であり、特に、それが仏教において、思想的に深く広く出ているように思う。
仏教でいう所の「諸行無常」という真理は、すべての現象は移り変わってゆく、即ち、哲学でいう所の、ヘラクレイトスの「万物は流転する」という真理と同じである。
これは、現象そのものではない。現象の奥に理法を発見して、初めて出てくる所の言葉である。「諸行無常」というものは、三次元現象界の本質であり、真理であり、実相である。
そしてまた、三次元の空間の本質もまた、「諸法無我」である。
ギリシャ哲学において、「実在とは何か」という議論があり、万物の源が水であるとか、火であるとか、様々なものに喩えられて表現されるが、空間というもの、存在というものの本質は、無我である。
このような見地は、「万物は流転する」というヘラクレイトス流の哲学の派生したる考え方であり、ソクラテス、プラトンが、客観的永遠普遍の真理に到達する源となったテーゼである。
ソクラテス、プラトンも、「諸行無常」「諸法無我」の時間論、空間論を、存在の本質として認識する所から哲学を始めている。
と同時に、同時代のエレア学派やピタゴラス学派にあった所の永遠普遍の実在という概念、これを限りなくアンチ・テーゼとしながら、テーゼ、アンチ・テーゼのジン・テーゼとして、「イデア論」を打ち建てたというのが、プラトンの哲学の真相である。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)