理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第1章「無常と永遠について」 第4節

第4節   真善美聖と人間について

   例えば、真の追求において、代表的なるものは哲学であろう。哲学の使命は、真理の探求にある。真理とは、永遠不変なるものである。それは、決して無常なるものではない。

 人間は、自らが無常なる存在であるにもかかわらず、こうした真理を求める。いや、真理を発見することができるのである。

 これは、どういうことを表しているのであろうか。認識の法則の根本の所であるが、認識には、物理学で使われる所の相互作用の法則が働いているのであって、愛を認識するものが内なる愛であるように、真理を認識するものは、内なる真理なのである。外なる真理だけでは、それが真理であると認識されないのである。

 人間の内に真理が埋まっているからこそ、真理を発見することができたのである。もしも、人間の内に真理がなければ、人間は外なる真理を認識することはできないのである。

 そうすると、人間の内奥には、永遠不滅なる真理が実在することがわかるのである。無常なる人間の内に、永遠なる真理の実在があるのである。

 また、例えば、善の追求において代表的なるものは、道徳であろう。道徳の使命は、人格的善の探求にあるといえる。

 善についての哲学的諸説があるが、哲学史を貫いて普遍的な真理といえるものは、カント哲学に代表されるような、善には法則があるという考え方であろうと思う。

 人間の内には、永遠不滅の道徳律があり、これに適うことをなすことが善であると、このように考えてゆくことが、道徳を普遍的な道徳となす前提であろうと思う。

 このように、善というものを掘り下げてゆくと、人間が先天的に有している永遠なる道徳法則にゆきつくのである。すなわち、人間の内には、無常なる人間の内には、永遠なる道徳法則というものが実在するといえるのである。

 また、例えば、美の追求において代表的なるものは、芸術であろう。芸術の使命は、美の創造にあるのである。

 本物の芸術作品そのものをよくよく観察してみると、バッハやモーツァルトの音楽や、ミケランジェロの彫刻や、ダ・ヴィンチの絵、ゲーテの戯曲や、詩などは、永遠不変に人々の心に訴えるものがあることに気づかれるであろう。

 こうした永遠なる芸術を育むためには、人間の心の内奥に永遠なる美が存在することが前提なのである。無常なる人間の根底には、永遠なる美の実在があるのである。

 これに加えて、例えば、聖なるものの追求を挙げてみても、その代表的なるものは宗教であろう。私はここで、宗教の使命とは、聖なる神の探求であるという定義をしておこう。

 宗教とは人間にとって根源的な欲求であって、その形態と個性は変わっても、宗教的なるものは、人類史の古今東西を通して存在するのである。

 神とは永遠不変の実在である。また、神の言葉の盛られた聖典にしても、数千年以上の生命を持ち、歴史と地域を越えて、普遍的に人々を感化する力を有しているものである。

 こうした神を認識すること自体、また、その教えの実践において、神との一体感を感ずること自体、人間の内には、永遠なる神性があることがわかるのである。

 無常とみえし人間の内には、永遠なる神性が、さらに言えば、永遠なる神そのものがあることがわかるのである。

 

(つづく)

 

第1章「無常と永遠について」 第3節

 

 第3節   永遠への憧れについて

 

 では、肉体と心が無常であり、本来ないものであるとすると、人間の存在とは仮象にすぎず、実在とは言えないのではないかと考えられてくる。

 実在とは、無常を越えた永遠の存在である。しかし、この永遠なるものに、人間は古今東西を通じて憧れを持ってきたのである。

 数多くの彫刻や絵が作られるのも、無常なるものを永遠化したいという欲求であろう。また、詩や小説によって人間の言葉を永遠化したいという欲求もあろう。

 真善美聖への欲求の根本にあるものは、永遠への憧れであるのである。この地上を見渡してみても、どこにもない永遠というものを追求する心が、精神が、人間には先天的に備わっているのであり、この欲求があることが、人間の尊厳を創っているのである。

 はたして、人間において、無常なるものへの憧れというものが存在するのであろうか。無常なるものは、やはり暗い印象を我々に与えるのではないだろうか。

 それに比べて、永遠なるものに対する憧れというものは、非常に明るい肯定的な印象を我々に与えるのではないだろうか。ここに、人間の本来あるべき「かくあるべし」の理想が感じられるのである。

 

第1章「無常と永遠について」 第2節

第2節   人間と無常について

 

 それでは、地上に生きる人間自身はどうであろうか。肉体は、物質と同じく無常である。誕生して後、成長し、そして徐々に老い、そして死する存在である。肉体もまた、無常の大河の中で、無から生まれて、無に帰する存在である。すなわち、空間のつながりによって、仮に生まれているものにすぎない。故に、「肉体は本来無いのである」という真理が導かれるのである。


   では、心はどうであろうか。一見、心は変わらないように見える。しかし、人生を長い目で見てみると、心も変転していると言えよう。様々な心情があるが、その中に果たして実体があるであろうか。実在があるであろうか。一つ一つの思いを点検してみた時に、すべては去来し、そしてまた、移り変わり、なくなってゆくものであろう。それは実体とは言えず、実在とは言えないのである。


   例えば、恋愛をとってみても、恋愛の心情が、ある時は高揚し、ある時は冷めて消えてしまうように、無常であることがわかるのである。ある人を愛する前は、その恋愛感情はもともとなかったものであるから、本来、無から生じた恋愛感情は、やはり無に帰してゆくのが本質なのである。


 また、精神的な徳目についても、例えば、愛や情熱などの感情は、常に磨かれ、維持しておかないと、徐々にではあってもなくなってゆくことがわかるのである。一生を通じて愛や情熱などを維持される方もあるけれども、これは、あくまでも努力の産物なのである。努力精進しなければ衰えてゆくものであるのである。


 このように、心と、そこから生まれる感情もまた無常であり、やはり無から生まれて、無に帰するものであると言わざるを得ないのである。故に、「心は、本来無いのである」という真理が成り立つことがわかる。


   そうすると、心にも時間の流れがあり、心にも空間的つながりがあるのではないかと探求してみると、確かに、心の中に起こる感情は生成流転しているものであるから、時間の流れがあるといえよう。

 しかし、物質の時間の流れと異なるところは、物質が、過去、現在、未来という位置が確固としているのに対して、心の世界では、過去のことが現在のように感じられたり、未来のことが現在のように感じられたりして、いわば、現在の中に、未来と過去とが共存するということが可能であるという点において、物質とは異なった時間の流れ方があるように思われるのである。


 また、空間的にも、その形状を、縦、横、高さで表すことができにくいことが挙げられる。特別な意識的空間が存在するのであろうと思う。このように、物質とは形式を異にするが、心が無常であることに変わることはない。

 

(つづく)