第1章「無常と永遠について」【注解的続編】(5)
【注解的続編】(5)
⑩ 本論文で述べる「実在」(理念)とは、絶対者のことである。これを、哲学的には「真理」、道徳的には「善」、芸術的には「美」、宗教的には「聖」と呼んでいるのである。
そして、「実在」(理念)とは、本来、真理そのものであり、善そのものであり、美そのものであり、聖そのものであるのである。
⑪ 真善美聖が、人間にとって永遠の実在であるとするならば、その対極にある偽悪醜俗は人間にとっていかなる存在であろうか。それらは、少くとも「実在」ではないといえるであろう。
「実在」とは絶対者であるから、その中には、人間にとって理想的といえるものしかないのである。「実在」とは、究極の真であり、究極の善であり、究極の美であり、究極の聖である。故に、その中には、偽も悪も醜も俗もないのである。
これらの属性は、人間の主として自由意志のゆがみによって生じたものであって、消極的な存在にすぎないのである。それに比べて、「実在」は、絶対者の本来意図された積極的な存在であるのである。
⑫ 「実在」とは、人間に先天的に存在するものであって、外から与えられたものではない。確かに、様々な知識や経験によって発露することはあるが、知識や経験のみによって得られるものとは異なるのである。
それは、本来万人が潜在的に有しているものであって、真そのものも、善そのものも、美そのものも、聖そのものも、人間の内に深く埋まっているものなのである。これらの性質を深く掘りおこすことが、地上での修練なのである。
誰もが真理は正しいと思い、善をできることならなしたいと思い、美には感動し、聖には敬意を表する。この万人の素直な感情の発露は、決して外から教わったことではなく、内在されている性質がにじみ出してきている姿なのである。
そして、これらの先天的性質を磨き出してゆけば、万人が真善美聖を創造することができるのである。
(おわり)
第1章「無常と永遠について」【注解的続編】(4)
【注解的続編】(4)
⑨ 人間の内なる「永遠なるもの」が外に創造として顕現すると、同じく永遠なるものとなる。
プラトンが認識された真理は永遠なるものであるが故に、今日に到るまで永遠の生命を保ちつづけている。
それは、同時代にあった数多くの著作物と比べてみられたらよく分かる。そのほとんどが、真理そのものではなく、無常なる知識であったがために、時代と共に忘れ去られてしまっている。
無常なる知識は、いくら当時の世潮に合致し、永遠なるものかにみえたとしても、時代を超えてみれば、無常なるものであったことが分かるのである。
一方、その時代においては、あまりもてはやされなかった真理の書が、時代を超えて読みつがれていることは歴史の真実である。
例えば、イエス・キリストの御言葉に「天地は過ぎゆかん。されど、我が言葉は過ぎゆくことなし」というものがあるが、まさしくイエス・キリストの御言葉は、宗教的真理そのものであったが故に、永遠に今日に到るまで読みつがれているのである。
この真理の法則は、現代にもあてはまる。今の時代にはやっているどのようなベストセラーも、真理そのものがそこに描かれていないならば、無常のあだ花でしかないのである。
その意味で、真理そのものが描かれている本を選び読む習慣、特に、古典を読む習慣は大切なのである。
この人間の内なる「永遠なるもの」は、もちろん他に、美として、芸術として創造される。これも、真理と同じく、人間の内なる実在が投影されたものであるならば、その作品は永遠性をもつ。
その反面、人間の皮相なる無常なる部分が投影されたものであるならば、その作品もまた無常である。
例えば、音楽をとってみても、バッハやモーツアルトなどの古典は、真理が音楽で描かれている程に永遠なる調べがそこにある。こうしたものは、時代を超えて常に聴かれている。
しかし、人間の皮相的な部分からでている流行歌などは、一時的に人気が出たものも、時とともに、すぐにすたれてしまうものが多い。
このように、人間の内なる永遠性に起因するものは永遠の生命を持ち、人間の無常性に起因するものは無常なるものとなるのである。
(つづく)
第1章「無常と永遠について」【注解的続編】(3)
【注解的続編】(3)
⑦ 本論文では、仏教の三法印のうち、「諸行無常」の真理が中心に述べられていたが、その背後には、「諸法無我」の真理もあるといえよう。
「物質は本来ない」「肉体は本来ない」「心は本来ない」という真理は、あらゆる実体とみえた「我」が本来無いものであることを現しているのである。
そして、無常無我の真理を悟ることによって、本文でも述べられているように、無執着で自由で平安なる境地、涅槃寂静の境地が得られるのである。
⑧ 本論文では、仏教でいう三法印の真理よりも、もっと積極的な大真理について述べられている。
三法印の真理は、現象面の真理にウエイトがあり、現象の無常無我なる真理の上に、無執着の境地を導くことに主眼があった。
その真理も万人を救う真理であるが、その上に、実在面の真理にウエイトを置き、実在の永遠普遍を人間の内に見い出してゆく大真理がある。
この大真理は、人間を実在そのもの、真そのもの、善そのもの、美そのもの、聖そのものへと導く力を有している。
かかる境地は、いわば光明荘厳の境地とでもいうべきものであって、人間の経験しうる最高の境地であろうと思われる。
(つづく)