理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第2章「運命と自由意志について」【注解的続編】(3)

 【注解的続編】(3)

 

⑧  相対的運命論、すなわち自由意志肯定論の立場は、道徳的な哲学思想から導かれることが多い。何故なら、道徳的善を行うためには、自由意志による自律が大切であるからである。

 代表的な哲学として、ストア哲学とカント哲学を挙げておきたい。両者の背景に流れる哲学は、自由意志の存在を前提として、感情を理性によって統御する美徳を説く点において、極めて類似していると思われるし、それこそが、普遍的な道徳原理ではないかと考えられるのである。

 

⑨  ストア哲学においては、自由意志を合理的に用いることが、自然に則ることであり、自然に則って生きることが、運命の摂理であると考える。また、自由意志を非合理に用いることが不自然なことであり、また、運命の摂理に反していると考える。

 故に、大宇宙の叡智より一片の理性を割りあてられた人間として、理性に合致した、自然に則した行動をしようとするのである。特に、マルクス=アウレリウスの『自省録』には、かかる思想が、実践道徳哲学として、実に滋味深く綴られている。


⑩  カントの道徳哲学の主著は、『実践理性批判』であろう。彼の道徳哲学に大きな影響を与えたものが、ルソーの『エミール』であることはよく知られている。ルソーはその中で、「良心の声」に忠実であることを主張され、「良心の声」に忠実に生きることこそ、善の行為であるとされている。

 このルソーの良心の声とは、マルクス=アウレリウスの指導理性の声と、ほぼ内容は同じである。そして、ルソーの思想の骨子だといわれている「自然にかえれ」という思想は、その本質において、ストア哲学の自然に則して生きることと、ほぼ同じであると私は考える。

 

⑪  このルソーの良心の哲学を、より理性的に純化し、体系化したものが、カントの道徳哲学である。

 

⑫  カントは、道徳を全うするためには、自由(意志)の概念が不可欠であると考えた。そこで、『純粋理性批判』の中で、認識できない先験的理念として自由(意志)を論じていたのを、『実践理性批判』では、実践理性の要請として、自由(意志)が導かれるとされたのである。

 具体的には、人間の内には普遍の道徳律があるということを、「理性の事実」として、実践において確認できるとした上で、この道徳律自身が、既に自由(意志)の存在を予想し、承認していることになると論じたのである。

 

(つづく)

 

第2章「運命と自由意志について」【注解的続編】(2)

 【注解的続編】(2)

 

⑤  絶対的運命論という観点からいえば、古代ギリシャにおいては、かかる思想が優勢であったといえよう。その代表的作品の一つが、本論文の冒頭でとりあげたソフォクレスの『オイディプス王』である。

 そもそも戯曲というものは、作者があたかも超越的実在の立場に立って、登場人物のすべての意志を決定し、ストーリーを決定するのであるから、作者に絶対的運命論を想起させざるを得ないのではないかと思われる。こうした運命観の傾向は、近代のシェークスピアの戯曲にも出ていると思われる。

 古代ギリシャの名言に、「あらかじめ定められていることは、必ずおこる。ゼウスの神の広大な心は犯すべからざるものである」というものがある。古代ギリシャの人々は、宗教的信仰心によって運命観が規定されていたようである。

 

⑥  宗教的信仰心と運命観という問題においては、古代ギリシャのみならず、キリスト教でも同様の思想が見られる。特に、プロテスタントのルターの「奴隷意志論」やカルバンの「予定説」などの思想には、絶対的運命論の思想が色濃く流れている。

 そもそも、キリストの生涯を考えてみるに、旧約聖書で預言者が、キリストの出現と生涯を予言されたのを受けて、自ら「予言が成就されるために」という言葉を残されて、従容として十字架にかかられるのであるから、その背後には、神の計画とその実現という絶対的運命観の思想が流れているといえよう。

 

⑦  本論文の絶対的運命論に限りなく近いものとしては、哲学的に代表的なものとして、スピノザの哲学が挙げられる。彼は、神、すなわち超越的実在を唯一の実体とし、人間には独自の実体性を認めなかった。そして、神のみが唯一の意志の原因であり、それを源として、原因結果の必然的連鎖の中で、人間の意志が決定されると考えたのである。

 

(つづく)

 

 

第2章「運命と自由意志について」【注解的続編】(1)   

  【注解的続編】(1)

 

①  本論文における哲学用語としての「超越的実在」は、宗教用語としては造物主(神)の概念にほぼ相当する。それは、大宇宙を統べる叡智であり、理性そのものであり、善そのものである存在である。

 

②  人間は、理性を有している点で超越的存在の分身であり、本性において超越的実在の属性を引き継ぐ存在である。宗教用語的には、人間は神から分かれてきた「神の子」であるという概念にほぼ相当する。

 

③  ショーペンハウアーは、超越者の「意志」ということを重んじられたが、本論文でいう超越的実在もまた、「意志」の主体でもある。しかしそれは、合理的、論理的である点で、ショーペンハウアーの「盲目的意志」とは対極にあるものである。

 

④  本論文の超越的実在とは、ヘーゲルの絶対者の概念と似ている点がある。何故なら、ヘーゲルの絶対者もまた、理性そのものであり、世界史を創ってゆくものであるからである。

 ヘーゲルによれば、世界史とは絶対者の自己展開であり、世界精神となって歴史を導くナポレオンなどの世界史的個人も、また諸個人も、各自が自主的に動いて歴史を創っているようにみえて、実は、その背後では、絶対者の「理性の術策」によって操られているのにすぎないとされているのである。

 これは、どちらかといえば、絶対的運命論に近い立場であるといえよう。

 

(つづく)