理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(4)

 〔注解的続編〕(4)

 

 名声欲についてであるが、誰しも本能的に、自分が認められたいという欲求をもっている。それ故に、名声欲も自然な欲求の一つといえよう。

 しかし、過度の名声欲は、人を正しい道から外れさせることが多い。歴史を振り返ってみても、同時代に名声を博した人が、後世に名を遺すとは限らない。いや、そのほとんどが、無常のうたかたの如く消えていっている。

 その一方で、同時代には評価されなかったが、後世になって、評価されている例も多い。

 例えば、ソクラテスは、同時代においては罪人とされたが、後世になって大哲人として万人の尊敬を集めている。もしも、同時代に評価されることだけを望むならば、ソクラテスも、同時代の人々に迎合した生き方と言動をすればよかったのである。

 しかし、ソクラテスは、何よりも「真理」の道を選ばれたのである。それ故に、自らが罪人とされるという最大の不名誉をのりこえて、「真理」の道を歩まれたのである。

 果たして、名声欲に執われた人が、どれだけ「真理」の道を歩めるかは疑問である。むしろ、「真理」の道を歩むのを妨げるものとなるであろう。

 また、愛という観点から考えてみても、名声欲に執われている人は、自己愛のみを求めることになる。すなわち、他の人々の自分への称賛という愛を常に奪いつづけているのである。

 これに対して、愛に生きる人は、人々から愛を奪わず、逆に、愛を与えてゆくことに専らである。故に、名声欲を超越し、名声欲に対する執着が少ないのである。

 真なる哲人は、どのような名声の嵐の中でもそれを重しとせず、どのような無名の内にもそれを重しとせず、常に淡々として平常心を保っておられるものである。

 かかる名誉欲に過度に執われずに、自己の本分を淡々と努めてゆくことこそ、ストイックな生き方であるといえよう。

 

(つづく)

 

 

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(3)

 〔注解的続編〕(3)

 

④ 物欲については、例えば、家であるとか、土地であるとか、衣装であるとか、車であるとか、宝石であるとか、過度に物に執われて生きることに問題があるといえる。

 現代程、物質面において豊かになった時代も珍しいが、逆に、現代程、精神的に貧しくなっている時代も珍しいといえる。

 私達は、ともすれば、物の追求ばかりにあけくれて、精神の追求を忘れがちになる。それだけ魂が地上的なものに染まっているということである。

 何故、地上で豊かである前に、精神において豊かになろうとしないのであろうか。

 精神は、確かに目に見えないが故に、その価値が判りにくい。しかし、歴然としてある価値なのであり、それは、地上にあるものの価値よりもはるかに高いものである。

 どんなに高価なダイヤモンドでも、精神の理性の輝き以上に高価なものはないであろう。どんな大邸宅であっても、精神の内奥にある心の大邸宅に比べると色あせてしまう。

 故に、まず何よりも、私達は、心をこそ耕さなくてはならないのである。心の価値、精神の価値、理性の価値にこそ、重点を置かなくてはならない。

 外面的なものは、すべて無常ではかないものである。しかし、内面的なものは、永遠無限を感じさせるものである。

 故に、外面はたとえ貧しかろうと、豊かであろうと、執われる必要はない。貧しくあるが故にプラスになることもあれば、豊かであるが故にプラスになることもある。

 しかし、いかなる環境におかれようとも、精神の輝きにまさる価値はない。理性の輝きにまさる価値はない。そこに重点を置いた生活をしてゆくことが、物欲に対するストイシズムであると思う。

 

(つづく)

 

 

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(2)          天川貴之

〔注解的続編〕(2)

  

③  性欲についてであるが、性欲の根源にあるものは、大自然の摂理であり、自然なものは肯定されるべきであり、全面否定することが真のストイシズムではない。

 ただし、性の欲求というものは、フロイトがすべての人類の営みの根底にあるものと据えられたように、非常に根源的で強い欲求であるといえるので、適正さを失い、統御を誤ると、人生を暗い淵に導くことにもなりかねないものである。

 飽くことのない性欲の追求は、多くの場合、身をもち崩すことになりやすいが、それ以前に、良心を傷つけることになる。過度の性欲の追求の後には虚しさが残ることが多いが、それは、良心が傷ついていることをあらわしているのである。

 故に、性欲は、良心にかなう適度なものをもって、足ることを知るべきなのである。

 さらには、恋や愛の感情と調和してゆくことが大切である。恋や愛のない性欲だけの恋愛感情は、偽物の恋愛である。

 真の恋愛とは、相手の美点を理想化することによって、自己の魂を飛翔させることができ(恋)、相手の立場に立ち、自分以上に相手を思いやり、優しくなることができる(愛)。

 たとえ根底に性欲があったとしても、この恋と愛こそが、人間の愛欲を文化たらしめ、人生を崇高なる芸術たらしめるものなのである。

 故に、恋や愛を忘却する程の性の追求は、人間として恥ずべきであり、性に関しては、適切なストイシズムをもちながら、恋と愛の感情を育ててゆく所に、本来的な性のあり方があると思う。

 また、現代によく見られる不倫などの行為は、家庭という理想卿を崩壊させる行為であるので、また、古来よりのキリスト教や仏教などの性道徳にも反するように、自然法に反することなので、慎まなければならない。

 現代にこそ、本当の意味での性欲のストイシズムの復権が望まれているのであると思う。

 

(つづく)