第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(3)
〔注解的続編〕(3)
④ 物欲については、例えば、家であるとか、土地であるとか、衣装であるとか、車であるとか、宝石であるとか、過度に物に執われて生きることに問題があるといえる。
現代程、物質面において豊かになった時代も珍しいが、逆に、現代程、精神的に貧しくなっている時代も珍しいといえる。
私達は、ともすれば、物の追求ばかりにあけくれて、精神の追求を忘れがちになる。それだけ魂が地上的なものに染まっているということである。
何故、地上で豊かである前に、精神において豊かになろうとしないのであろうか。
精神は、確かに目に見えないが故に、その価値が判りにくい。しかし、歴然としてある価値なのであり、それは、地上にあるものの価値よりもはるかに高いものである。
どんなに高価なダイヤモンドでも、精神の理性の輝き以上に高価なものはないであろう。どんな大邸宅であっても、精神の内奥にある心の大邸宅に比べると色あせてしまう。
故に、まず何よりも、私達は、心をこそ耕さなくてはならないのである。心の価値、精神の価値、理性の価値にこそ、重点を置かなくてはならない。
外面的なものは、すべて無常ではかないものである。しかし、内面的なものは、永遠無限を感じさせるものである。
故に、外面はたとえ貧しかろうと、豊かであろうと、執われる必要はない。貧しくあるが故にプラスになることもあれば、豊かであるが故にプラスになることもある。
しかし、いかなる環境におかれようとも、精神の輝きにまさる価値はない。理性の輝きにまさる価値はない。そこに重点を置いた生活をしてゆくことが、物欲に対するストイシズムであると思う。
(つづく)