第2章「運命と自由意志について」第3節(1)
第3節 自由意志の存在根拠について(1)
しかし、超越的実在の意志のみが世界に顕れているとなると、この世の中の様々な悪とみえしものも、超越的実在があえて創られているものとなる。しかし、究極の善である超越的実在の属性に悪があるというのは、どうしても考えられない。やはり、超越的実在の属性には善のみがあり、悪はないとするのが妥当ではないのであろうか。
では、悪とは何か。そこで、人間の自由意志の積極的存在根拠がでてくるのである。人間は、本性として善として創られているが、同時に、煩悩と自由意志を有しているのである。そして、この自由意志を煩悩の方向に行使した結果、また自由意志と自由意志とがぶつかり、歪みが出ている結果、一時的に悪というものが生じているにすぎないのである。
あくまでも、超越的実在は悪を創らないのである。悪というものは、人間の自由意志の迷いの産物にしかすぎないのである。その意味で、消極的存在なのである。人間が創ったものであるから、人間が善なる本性に立ち返ることによって無くなってゆくものなのである。
ところが、超越的実在が悪を創っていると考えると、いつまでたっても悪は積極的存在として存在し、無くなることはないのである。
それはあたかも、ショーペンハウアーの盲目的意志の世界を思わせるようなものである。世界の根本にある意志が盲目的であるならば、人間に救いはない。
例えば、前述した『オイディプス王』などは、合理的というよりは、反合理的な盲目的意志によってもてあそばれた人生であったように思われる。
しかし、これは、仏教でいう所の業が現れているのであって、一つの法則ではあるけれども、決して超越的存在の意志ではないのである。人間の自由意志による迷いが業をつくり、業によって人生が悲劇となっているのである。
であるから、ショーペンハウアーの盲目的意志とは、実は、人間の煩悩であったり、業であったりするものを述べているのであって、超越的実在の意志について述べているのではないのである。あくまでも、超越的実在は善のみの実在であって、叡智そのものの実在なのである。
(つづく)