理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第3章「快楽と幸福について」〔注解的続編〕(9)

 〔注解的続編〕(9)

 

①  本論文の中で、「大自然の摂理にかえれ」という言葉がでてくるが、この考え方はストア哲学にもあるが、近代のルソーの説えた「自然にかえれ」という考え方と本質的に一致する。

 ルソーは、パリの社交界において最大の寵児であったが、非常にストイックな言動をなし、まさに、欲望と虚栄が渦巻く文化文明の内に潜む退廃に対して、警鐘を鳴らされたのであった。

 このように、ストア哲学の立場からルソーを解釈すると、数多くのルソーの思想にまつわる誤解と謎が解けると思われる。例えば、ルソーの自然法論を、ストア哲学自然法論から解釈すると分かりやすいのである。

 

②  ショーペンハウアーも、「人生は苦なり」と喝破された哲学者である。しかも、「意志の否定」という倫理的解脱によって、幸福が得られるとされている。

 しかし、根本の形而上学的実在が「盲目的」であることは、本論文が、根本の形而上学的実在が「合理的」であることと比べて大きく異なる。

 私は、ショーペンハウアーの「意志」を煩悩と解釈するが、それは、ショーペンハウアーのいうように根本的実在ではない。それは、理性的悟りのない状態の時にそのように思えるという意味での「実在」でしかない。決して、迷いの盲目的意志は、本来の意味での実在ではないのである。

 理性的悟りの立場からみれば、ショーペンハウアーもいうとおり、盲目的意志の発現は、「真に実在でないから」、否定滅却できるのである。この観点は、ショーペンハウアー哲学の矛盾と限界を超える見解であろうと思う。

 そして、意志を否定した上ででてくるのが、理性の輝きであろう。この理性の輝きを、私は、真善美聖と表現している。この理性の立場に立った時に、人間の実相、世界の実相が観えてくるのである。それは、真善美聖に光輝かんばかりの光景である。

 かかる哲学が、ショーペンハウアー哲学の奥にある世界である。これを、私は、ショーペンハウアー哲学の実相的展開と呼びたい。

 

(おわり)