理念哲学講義録  天川貴之

真善美聖の「理念哲学」の核心を、様々な哲学的テーマに基づいて、わかりやすく講義したものです。

第9章「経験と叡智的直観について」第7節(5)    天川貴之

 

 カント自身は勿論、実践理性批判の中で述べられている通り、理念を前提としているから、そこから要請されるところの人間観、世界観というものを構築している。

 理念、もっと言えば、また、霊的現象というものも含まれるが、このようなものを前提としなければ、カントの実践理性批判は著述できないし、理解できない。

 したがって、その真髄において、カントはスウェーデンボルグというものを認めていたと理解して良いだろう。そのようなことも、おそらくあるであろうという認識は持っていたであろう。

 そしてまた、実践理性批判を、純粋理性批判、また判断力批判と共に著述することによって、カントは、宗教の領域にもその場所を開け、学問が、その学問としての領域を、その学問の出発点である哲学が、哲学としての領域を、ここからここまでであるという可能性と限界を、近代的要請の立場から規範として打ち建てたのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

 by 天川貴之

 

 

第9章「経験と叡智的直観について」第7節(4)    天川貴之

 

 カントは何を限界としたのか。その基準は人間である。近代的人間である。

 近代的人間はどのようなものであったかというと、カント自身がそうであったように、信仰心というものを懐深く持ちながら、尚かつ、合理主義の要請に適うように、学問の領域において、限りなく論理的、かつ緻密、かつ確実な知識を積み重ねてゆく、このような作業をするのが、近代の知識人の多数ではなかったかと思うのである。

 しかし、カントの哲学は、あくまでも人間の可能性と限界という観点に立った哲学であり、人間としての謙虚さという戒めを説く哲学であったと位置づけて良いかもしれない。

 ソクラテスは、無知の知ということを哲学の探究態度の出発点に据えた。無知の知ということは、解らないという立場のことである。

 真理があったとしても、理念があったとしても、また、霊的現象があったとしても、それを本当であるという立場は信仰の領域であり、それを本当でないという立場もまた、これ懐疑論の極致である。

 この両極端を取り去って、人間の限界と可能性というものの職分をよくよく分析して、平凡な人間の立場で、近代の人間の立場で、無知の知という出発点から歴史を認識し、人生を認識し、そして、近代という時代を創らんとしたのがカント哲学であったわけである。

 

(つづく)

 

 

 

 

 by 天川貴之

 

 

第9章「経験と叡智的直観について」第7節(3)    天川貴之

 

 そこで、哲学の原点であるところのプラトンの哲学というものを繙いてみた時に、その中には、スウェーデンボルグ的な霊界の現象というものが、数多く述べ伝えられていることに気がつく。

 もともと哲学は、その源において、スウェーデンボルグに象徴されているところの霊的な現象論もまた、射程に入れていたものである。

 アリストテレスは、その霊的な現象論を取り除き、地上的な現象論のみに的を絞った確実性のある哲学を常識として打ち建てたが、そのアリストテレス哲学も、中世のキリスト教の啓示的真理という試練を受け、その限界を露呈し、そして、トマス・アキナスは、信仰と理性というテーマを両方大切なものとして止揚した。

 けれども、中世という時代の中にあって、中世の時代的要請に適った範囲で、その位置づけをなしたものであろう。

 私が先程から述べている通り、啓示に象徴されているところの直観は、論理に象徴されているところの哲学と矛盾するものではなく、論理即直観であり、直観即論理である。

 宗教即哲学であり、哲学即宗教である。哲学と宗教というその分かれ目は、本来、垣根を無くさなければならない時に来ているのである。

 また、科学と哲学、科学と宗教、宗教と芸術、哲学と芸術、このようなものの垣根も、我々は、本来の理性、統合理性という観点から乗り越えなければならず、止揚統合してゆかなければならないわけである。

 

(つづく)

 

 

 

 

by 天川貴之