第9章「経験と叡智的直観について」第7節(3) 天川貴之
そこで、哲学の原点であるところのプラトンの哲学というものを繙いてみた時に、その中には、スウェーデンボルグ的な霊界の現象というものが、数多く述べ伝えられていることに気がつく。
もともと哲学は、その源において、スウェーデンボルグに象徴されているところの霊的な現象論もまた、射程に入れていたものである。
アリストテレスは、その霊的な現象論を取り除き、地上的な現象論のみに的を絞った確実性のある哲学を常識として打ち建てたが、そのアリストテレス哲学も、中世のキリスト教の啓示的真理という試練を受け、その限界を露呈し、そして、トマス・アキナスは、信仰と理性というテーマを両方大切なものとして止揚した。
けれども、中世という時代の中にあって、中世の時代的要請に適った範囲で、その位置づけをなしたものであろう。
私が先程から述べている通り、啓示に象徴されているところの直観は、論理に象徴されているところの哲学と矛盾するものではなく、論理即直観であり、直観即論理である。
宗教即哲学であり、哲学即宗教である。哲学と宗教というその分かれ目は、本来、垣根を無くさなければならない時に来ているのである。
また、科学と哲学、科学と宗教、宗教と芸術、哲学と芸術、このようなものの垣根も、我々は、本来の理性、統合理性という観点から乗り越えなければならず、止揚統合してゆかなければならないわけである。
(つづく)
by 天川貴之