第9章「経験と叡智的直観について」第8節(2) 天川貴之
第8節 叡智的直観について(2)
真理が観える、理念が観えるということは、悟りがあるということである。
統合的理性は、内なる叡智は、外なる叡智を見抜く。内なる真理は、外なる真理を認識する。
相互作用という科学の言葉があるが、真理は真理と相互作用するのである。同通という科学の言葉があるが、真理は真理に同通するのである。理念は理念に同通するのである。理性は理性に同通するのである。これを、本当の知るということと言える。
即ち、解らないというのは、これは逆に考えれば、真理に同通していないということでもある。
解らないから出発し、本当だとも言わず、嘘だとも言わず、そのような謙虚な立場から出発し、無知の知から出発しながらも、心を白紙にした状態から出発しながらも、知を、理念を、如何に深く、高く、広く直観し、それを、今度は論理的に説明し、更に、経験に応用して実証してゆくことができるかということを考えなければならない。
(つづく)
by 天川貴之
第9章「経験と叡智的直観について」第8節(1) 天川貴之
第8節 叡智的直観について(1)
解らないということが解っただけで、人生というものは開けない。
解らないという謙虚な立場から出発しながらも、無知の知から出発しながらも、本当の叡智を求めて、本当のイデア、理念を求めて、限りなく飛翔してゆくのが、哲学者の使命であり、学問の使命であり、学者の使命であり、また、言論人、思想家の使命であろう。
即ち、理念への飛翔、叡智への飛翔というものを、私達は、これからの時代において、更に深く探究してゆかなければならないのであり、そのような方法論を、むしろプラトンの哲学を引き継いだプロティノス的立場から新しい切り口を見出せるのではないかと思うし、その切り口を見出すことによって、仏教の般若の考え方、また、東洋の伝統的な思考方式を融合する潮流を創り出すことができるであろう。
これからは、解らないことは解らないと言うという、知的廉直の立場を取りながらも、自分自身に正直であると共に、真理に正直であらなければならない。
真理に正直であるということは、真理を直観的に悟る精進努力をしてゆくということであろう。
(つづく)
by 天川貴之
第9章「経験と叡智的直観について」第7節(6) 天川貴之
第7節 カント哲学の本質とその限界について(6)
その不可知論を逆手にとって、カント以降、そのような理念の世界が存在しないというふうに流れ、解釈したのは、カントを卑小化し、カント哲学を、むしろ価値無き哲学としている考え方である。
カントの本心というものは、理念が存在するという確信から成り立っているわけである。それは、プラトンと同じ立場であるし、キリスト教や、仏教や、その他のものとも一致する。
このカント哲学の立場を受けて、オカルトというもの、例えるならば、啓示というもの、神示というもの、また様々な霊的現象というもの、こうしたものに対して、オカルトという位置づけをなし、そして、それは本当だとも言わない、そして嘘だとも言わない。懐では、そういうこともあるだろうと思いながらも、自分自身の言論人、学者、哲学者の立場からは解らないという答えを出す。
これが、現代におけるカントの正当な考え方を受け継ぐ立場ではないかと思うが、それだけでは、新時代の精神というものが開けてこないのも事実である。
(つづく)
by 天川貴之