第5章「唯物学術と理念学術について」(3)
第3節 「精神論」の大切さについて
それでは、唯物的社会にあって、人間と社会の堕落と崩壊を防ぐものは何であろうか。それこそ、私は「精神論」であると答えたい。
「精神論」こそが、人間を真に向上させ、堕落から防ぐ原動力となるものであり、人間によって成り立つ社会を、健全に発展させる源であるからである。
「精神」なき人間というものは、生命のない肉体、もっといえば、生命のない物体である。「精神」がなくなれば、人間は人間でなくなるのである。
同じく、国家も「精神」なき国家というものは、生命のない組織、もっといえば、生命のない物的関係である。「精神」がなくなれば、国家は国家でなくなるのである。
人間であっても、細胞はどんどん生まれては滅してゆくのに、同じアイデンティティを保つことができるのは、「精神」があるからである。
国家であっても、構成員がどんどん変わってゆくのに、同じアイデンティティを保つことができるのは、「精神」(日本精神等)があるからである。
このように、現代の唯物社会を良くしようと思えば、「精神」の大切さを人々に訴えなければならない。一見、目にみえないから看過されがちであるが、実は、人間と社会を根底から支えている「精神」の重要性を、何よりも主張しなければならない。
このように、「精神」を、人間の本質、世界の本質と考えてゆく立場のことを、観念論という。
観念論を歴史的に考察してみると、古代ギリシャにおいては、ソクラテス、プラトンによるイデア論を中心とした観点論哲学があり、近代ドイツにおいて、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと連なる観念論哲学がある。
しかし、ヘーゲル以降、ヘーゲル批判によって、フォイエルバッハやマルクスやエンゲルスが登場してくると、観念論も下火となり、それにかわって、唯物論が時代の主流を占めるようになっている。
(つづく)