第4章「存在と実在について」〔注解的続編〕(2)
〔注解的続編〕(2)
⑥ 本論文においては、単なる存在論のみならず、「心」を中心とした独自の認識論が論じられている。すなわち、心境によって認識される世界が異なるという真理が洞察されているのである。
従来より、仏教等の世界では、心境によって見える世界が異なることは、体験的真理としていわれてきたことである。
例えば、悟りの境地をあらわす言葉に「見性」というものがあるが、これは、自分自身の仏性が顕現することによって、周りの世界の仏性が見えてくるようになることをさしている。
この悟境は、「山川草木国土悉有仏性」という言葉にあらわされている。この境地に立つと、自然に、自分自身の心の世界の中心にも、「仏性」がありありと確固として光輝く実在として自覚されるようになる。
これは、哲学的にいえば、心の世界に、真実在たるイデアが確固として光輝く実在として自覚されるようになるのと同じである。
⑦ 本論文の境涯を、仏教的世界観に照らして考えてみると、第一段階の地上的なる欲望に執われて認識している段階とは、「欲界」の六道輪廻の状態にあたるといえる。これは、執着の内にある生である。
⑧ そして、第二段階の無執着になって認識している段階とは、「阿羅漢」といわれる涅槃寂静の境地であるといえる。この境地を特徴づける認識上の言葉としては、「如実知見」ができるようになるといわれている。
⑨ さらに、第三段階のイデアを認識する段階とは、イデアは真理であり、真如であるから、これは、「無色界」における如来の境涯にあたるといえる。
⑩ 仏教においては、無色界と欲界の間に「色界」がおかれ、そこでは、「菩薩」が「如来」に向けて修行しているとされているので、これは、如来と阿羅漢の中間的形態として、真実在たるイデアの属性である愛や夢や情熱や知恵や豊かさや勇気などの精神的徳を修めながら、真実在たるイデアそのものの認識を目差している段階といえよう。
(つづく)