第8章「現象と理念美について」(8) 天川貴之
第7節 芸術家の理念の輝きの段階性と多様性について
このように、理念美というものは、芸術が究極において追究しているものである。
そして、前述したように、理念美にも、究極の理念美を頂点として、段階性と個性の多様性があるものであり、それを認識するものも、人間の精神の境涯、すなわち、内なる理念美の顕現度合いの段階と個性の多様性に基づいているのである。
例えば、絵画においても、レオナルド=ダ・ヴィンチが描いたイエス・キリストの絵画と、他の凡人のイエス・キリストの絵画とでは、そこに顕れている理念美が全く異なるのである。
レオナルド=ダ・ヴィンチの描いたイエス・キリストの絵画には、まさに、絶対者そのものに近い理念美が顕現しているといえるのである。
同じイエス・キリストを例にとれば、ミケランジェロの創ったイエス・キリストの彫刻と、他の凡人のイエス・キリストの彫刻とでは、そこに顕れている理念美が全く異なるのである。
同じテーマに基づいても、イエス・キリストを通して顕現した究極の理念美そのものを、どのくらい高く広く深く観ずることができたかということにおいて、無限の開きがあったことを示しているのである。
ミケランジェロの内には、偉大なる理念美が脈々と顕現していた証であるといえよう。
例えば、音楽においては、バッハの「マタイ受難曲」とヘンデルの「メサイア」を聴いてみると、両者が、イエス・キリストの理念美を非常に高く広く深く顕わしていることが分かる。
しかし、最高のものであっても、「マタイ受難曲」と「メサイア」では、バッハとヘンデルの個性の差が明らかにあるといえるのである。
このように、人間として生きられて、現象の肉体の内に人類最高の理念美を輝かせられたイエス・キリストを題材にしても、その理念美をどこまで観じきり、どこまで表現しうるかということは、芸術家の精神の内奥なる理念の輝き如何によるのである。
そして、その輝きが最高度のものであったとしても、個性独特の輝き方があるのである。
(つづく)
By 天川貴之