第7章「知識と叡智について」(11)天川貴之
〔注解的続編〕(1)
① ショーペンハウアーの『思索』や『読書について』などの思索的断片は、主著の『意志と表象としての世界』以上に広く読まれたが、それは、ショーペンハウアーが知恵の段階にある哲学者であり、実践哲学の知恵に長けていたためであろう。
実際に、彼は、思索と読書について、知恵の立場から知恵の貴重さを実感をこめて力説し、単なる知識について厳しい批判をしている。
しかし、彼の思索が叡智の段階に達していなかったことは、彼が、ヘーゲルの絶対知に基づかれた哲学体系の価値を認識できなかった所にあらわれている。
② 渡部昇一氏も『クオリティライフの発想』という著書の中で、知の質に対して、「インテリジェンス」の知と「インテレクト」の知に分けて洞察されている。
前者が知識であり、後者が知恵である。実際に、彼の著書には、多くの同時代の知識人と比べて、深い洞察力に裏づけられた知恵が輝いているように思われる。
③ 仏教でいう「識」とは、知識の段階であり、「般若」とは、知恵の段階であるといえよう。
すなわち、宗教的にいえば、知恵とは、悟りに基づいた洞察力のことをいうのである。
(つづく)