第7章「知識と叡智について」(1)
第1節 真の知と真の知者について
知識と叡智について論じてゆきたい。
現代は、歴史的にみても、非常なる知の時代であって、膨大な量の知識が情報として飛び交っている。大型書店にいけば、毎年毎年、大量の本が出版されては、大洪水の如く氾濫し、すぐ様、その姿を消してゆく。
こうした大きな知の大流の中にあって、我々は、いかにその中を漕ぎ渡ってゆけばよいのであろうか。たいていの方が、その知の大流の中を流されながら、自らがどのあたりを何のために流れているのか分からなくなってきているのが実情であると思う。
こうした時に大切な心構えは、何が真の知であり、どのような方が真の知者であるかを見極めてゆくことである。
知識の量は時代と共に増えているが、真なる知は時代を超えている。こうした時代を超越した真なる知をどこまでも探究してゆくことこそが、真なる知者となるためには大切なのである。
徒らに、溢れんばかりの知識をかき集めても、真なる知者となることはできない。現代には、むしろ内実のない知識が多いといえよう。
かのギリシャ哲学のプラトンの知は、現代の哲学者の知と比べて、時代が古いという理由だけで、果たして劣っているであろうか。いや、そうではない。むしろ、現代の知識をすべてかき集めても、プラトンの叡智に及ばないというのが実情ではないだろうか。
このように、文化とは、その時代、その時代に独特の高みがあるものであり、時代が進展したからといって、高くなるものではないのである。
かのギリシャでいえば、その建築芸術や文学芸術なども、現代と比べて非常なる高みにあるといえるのである。
特に、真理の世界においては、例えば、宗教的真理においても、釈尊以降に釈尊を超える仏教者が出ていないように、イエス・キリスト以降に、イエス・キリストを超えるキリスト教者が出ていないように、その特定の真理の高みは、時代を超えているのである。
同じく、哲学的真理においても、ソクラテス、プラトン以降に、ソクラテス、プラトンを真に超える哲学者がほとんど出ていないように、その特定の真理の高みは時代を超えているのである。
このように考えてみると、現代の知識の洪水というものが、ただ単に量だけのもので、質においては、過去の哲人、賢人達の書の方がはるかに高いし、ためになるものであることが分かるのである。
(つづく)