第9章「経験と叡智的直観について」第6節(1) 天川貴之
第6節 理性論の諸相について(1)
プラトンに始まり、アリストテレスやプロティノスを経て、また、キリスト教の啓示的真理の把握方法を踏まえて、トマス・アキナスがギリシャ哲学と止揚した中世の哲学に流れ、アンチ・テーゼを唱えた合理論のデカルトが受け継ぎ、そして、近代以降の合理論というものが、カント、ヘーゲルと完成され、現代に受け継がれてきたわけであるが、これは、理性が様々な試練と経験を経て、自己発展し、成長してゆく過程であったということも言えるのである。
プラトンの認識し、打ち建てた真理という哲学が原点にありながらも、その哲学に対して、様々な角度から刺激を与え、アンチ・テーゼを与え、そして、その都度、ジン・テーゼを創り出して、合理論を発展させてきた、理性論を発展させてきた歴史が、哲学の歴史であったと言うこともできるのである。
例えて言えば、デカルトの合理論にしても、まだ不充分なものがあると言える。デカルトの合理論は、限りなく人間の理性というものに主眼をおいた哲学体系である。
トマス・アキナスは、神の理性というものを中心においた哲学であった。それは、キリスト教の中世世界を形創った屋台骨の哲学として、どうしてもその時代には必要な時代精神であった。
そして、それを、とりあえずアンチ・テーゼの形で、同じく理性の立場から、人間というものの限界と、原点と、可能性に立って打ち建てられたところの精神が、近代合理主義である。
近代哲学は、ある意味で神から人間が独立し、そして、人間として理性を深めてゆく中で、再び絶対者たる神に至るというヘーゲルの哲学に至るまで、試行錯誤を繰り返してきたのが歴史であった。
(つづく)
by 天川貴之